最近読んだ本 『感性の限界−不合理性・不自由性・不条理性』高橋 昌一郎 著


『感性の限界−不合理性・不自由性・不条理性』高橋 昌一郎 著 (講談社現代新書)

図書館にリクエストして長らく来なかった本。先日催促の電話をしたら他にも多数リクエストがかかっていてなかなか回ってこないとのこと。。。人気のようです。


本の紹介には
 人間の愛は「不合理」なもの?自由だと勝手に信じている人間が実際には「不自由」なのではないか?なぜ人間は生まれて死ななければならないという「不条理」に遭遇しているのか?そもそも人間とは何か・・・・?
「行為」「意志」「存在」の限界をテーマに、行動経済学者や認知科学者、進化論者、実存主義者など多様な分野の学者からカント主義者や急進的フェミニスト、会社員、運動選手、大学生も加わり、楽しく深く広い論議を繰り広げる。そこから見えてくる人間の姿とは。。。


シンポジウム形式で繰り広げられる討論は同じ著者の「理性の限界」「知性の限界」に続く第三作目で完結編!?
討論形式であるため難しい話でもさくさくと読めました。
途中話が脱線しそうになると司会者が「そのお話は別の機会にお願いいたします」と軌道修正。これがけっこう多くて笑えます。


一番印象に残ったのは第一章の2 カーネマンの行動経済学の「アンカリング効果」・・・たとえば「定価5千円」と表示するより「定価一万円の半額セールで5千円」と書いた方が効果的なこと。これはよくあることですが、これがさまざまな場面で使われ、実際には不合理とも思える結果を生み出していることなど。。。よく見渡してみればこれは「危機的状況」とか「まったなし」など言葉のアンカリングが政治の世界にもあるのでは?などと思ってしまいました。


「おわりに」にも印象に残る話がありました。
なぜ人は「空気」に支配されやすいのか?で、実際に東京大学の医学部放射線健康管理教室の助手であった安斉氏(立命館大学名誉教授)が放射線防護学の立場から日本の原発の政策を批判したことにより学内では「安斉を干す」ことが当然の「空気」となり、氏はすべての教育業務から外され、研究発表には教授の許可が必要になり、同僚からは無視される「万年助手」の立場に封じ込められたという、まるで中学生のイジメのような「嫌がらせ」がなんと17年間も行われたという驚くべき事実。

放射線を過度に恐れるのではなく、かといって過小評価するのでもなく「正しく恐れる」ことが以下に困難か。そもそも人類は未知の現象を過度に恐れるように進化したのではないか?
未知の現象に対する「恐れ」や無意識的な「認識」の相違によって、議論の出発点から結論まで、大きく影響を受ける可能性があるということ。。。これは原発推進側と原発反対側の意見が延々と平行線をたどることから考えても納得。。。


現実の世界は「限界」に満ちていて壮観なネガティブの山ばかりのようではあっても、だからこそそこに果敢に挑戦し続ける人間がいるということもまた事実で、「何故?」と考え続けた人類の歴史の縮図をざっと辿った感がありました。
これからどんな新しい発見があって、もし将来この本の続きが書かれたならどんなシンポジウムになるのか?興味が湧きました。